“うちにふさわしい人材”を定義する
本日は、先月からいっている会社でのコンサルティングを行ってきました。
取締役の方を交えて、PJチームで社内の教育体系をつくろうとしています。
その中で、まず、うちの会社にふさわしい基本的な人材像ってなんだろう、ということで話をしました。
中期経営計画として、将来自社はこうなりたいから、こういう技術や能力を身に付けた人材が必要だ、
とかそんな話ではありません。
普遍的に自社にふさわしい人材像です。
他社や社会のことは関係なく、自社にふさわし人材像なわけです。
このような人材像を明確にするのは単なる手段であり、目的ではありません。
社員を本当にこのような、自社にとってふさわしい人材にしていかなければなりません。
そのためには、絶対に経営トップが、その人材像にぶれがないようにする必要があります。
当たり前といえば、当たり前ではありますが・・・。
かの徳川家康にこんな逸話があります。
(司馬遼太郎 「覇王の家(下巻)」P144~P145より)
「素手で刃物を獲る馬鹿」
という咄(はなし)が、家康にある。
あるとき、浜松の場内で突如乱心した者があり、太刀風も荒々しく棒振り回して廊下を飛び歩き、
人を見れば襲って傷つけた。
城内は大騒ぎになった。
それに対して、遠州出身の兵法自慢の者がスルスルと前へ出、
その狂人の太刀を巧みにかわしながら手もとにつけ入り、素手でもってその狂人をとりおさえた。
当然、ほうびがさがるものとその兵法自慢の者がおもい、他の者も賞賛したが、家康は逆に怒り、
「その類の者、当家にとって無用である」
と、宣言するようにいったため、城内は一時に酔いが醒めたような思いがした。
家康によれば、刃物に対して素手で対(むか)うような者は大事はまかされないというのがある。
家康はいう。刃物には刃物、もしくはしかるべき捕り道具を用意せよ、かつは人数をあつめ、
捕りものの部署をし、工夫をこらせ、しかるのち事無く捕えるのが当家にとって有用の侍である、という。
素手で捕ってみせようという魂胆はおのれ誇りのあほうのすることで、
そういう者に一手の軍勢をあずければ、自分の綺羅を見せびらかすためにどういう抜け駆けをし、
勝手戦(いくさ)をし、ついには全軍の崩壊をまねくような悪因をつくるかもわからないというのである。
以上
すさまじいですね。
これぐらいトップにぶれがなければ、どんな人材であるべきなのか、
社員は分かりやすくなると思います。